2009年12月31日木曜日

マイナス茶碗或いはロック史・・・工藤冬里



2010年の幕開けは、工藤冬里「マイナス茶碗或いはロック史」。
破竹を三方から重ねあわせたような茶碗にはじめは、何なん?と笑ってしまいましたが、「マイナス茶碗」の解説をよんである意味関心してしまいました。それは。。。

「マイナス茶碗は、サボテン学の権威、龍膽寺雄先生の文章から取ったものです。
インド六派哲学は、「原因はそれ自体のなかに結果をもっている」とみなす唯名的な因中有果論と、「原因はそれ自体のなかに結果をもたない」という実在的な因中無果論に分かれました。
たとえば粘土から茶碗を作ろうとするとき、粘土には茶碗と呼ばれる原因が最初からあることになる。一方、いくつかの欠けた陶片ををうまく合わせて作った茶碗のようなものは、元の粘土に原因があったわけではない。 
陶器師と粘土の関係は、イザヤ書29章に詳しく述べられています。それによると、私たちは粘土で、陶器師は神です。
from a summer to another summer という曲は、そのことを扱ったものでした。
だから轆轤で形を造ると、それはそれは消耗します。まるで自分がアダムを形作るかのように。役者に「動くな、死ね、甦れ」という監督のように。
白山陶器を見にいったそうですが、それは150年来の世界的産学協同体制のユートピア幻想に過ぎない。不完全な人間の造ろうとする茶碗は量産してもしなくても負の要素を必然的に持たされていきます。大里がとうとう「音楽」が出来なかったのと同じように。
僕は更に、磁器と陶器は違うのではないかという観点をもっています。
磁器は実在的、陶器は唯名的に作られるべきだというのが僕の考えです。
そのことは、磁器はパーツを貼り付けてよい、とした走泥社一派の態度と共通します。
それで今回、磁器は欠けたパーツで作られ、庭の土は俎板のように不完全に投げ出されることになります。」

これを理解してからは、よけいに愛おしい器となりました。

大晦日の夜、
ピアノの上にずらありと飾り付けをし、。。。




じゅうたんスピーカーにも。


そしてあわてて家に帰る前にマーケットで夫と買い物をし、夫のキャラバンの助手席に乗ろうとして足をステップにかけたところで、よろけてしまい、ころころっと地面に転んで、手首を骨折してしまいました。